映画「福田村事件」を観た

映画「福田村事件」を観てきた。ワクワクしてみたいという感覚よりも、知識として一応知っていることではあるが、どこか知らない世界のこと、自分とは関係ないことと思ってしまっている自覚があるので、もう少し向き合ってみようという日本で日本人として2023年を生きている責任感みたいなもので観た。

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今からちょうど100年前、1923年の9月1日に起きた関東大震災。今ではその日は防災の日とされていますが、そのときの大きな被害は、社会主義を主張していた人たちや日本国籍のない朝鮮人の方たちなどへの自警団による人災にも繋がっていたということは多くの人が知っていながらもあまり目を向けたくない事実なのではないかなと思います。祖先を大事にし、自分の生まれ育った土地やそこの文化、歴史を大事にするのと同じで、先を生きた人たち=自分たちにつながる人たちは、正しく良い行動をした人たちであって欲しい、という心理が働くのは仕方のないことのように思う部分もあります。わたしもそういう部分が自分にあるというのはかなり自覚しています。

でも、おとなになって改めて自国の近代史を知るようになると(高校までの授業では近代史はたいしたことは教えてくれなかったと思う)、あまりにも酷いふるまいを近隣諸国にしてきていると感じざるを得ません。当時は日本という国がそもそも弱く、打って出ないといけなかったのだろうと思う部分もあり(いいか悪いかは別として)そうふるまうしかなかったのだと感じる要素もあります。でも、敗戦したんだ…ショック…みたいになるのはわかるんだけど、そこで社会の思いが留まっていて、自分たちの「国」=所属している塊が他の「国」に「酷いことをしてしまった」という自覚を得ることなく、反省もほとんど共有されずにいたことで起きている現在の問題も多く、そこと向き合って解決しようとしないことにずっと疑問を感じていました。その事実に触れると、それは嘘だ!脚色だ!そう言っても自分たちがやったんじゃない!みたいな反論をする人が、知識層(という言い方が適当かわかりませんが)にもかなりたくさんいるのをみかけていたので、なぜなんだろう?と。

でも、この映画を見ると少しわかったような気がしました。当時の日本の人たちは、自分のいる「国」がどういうものであるのか?意識がかなりおぼろげだったのではないかなと。少なくとも今より全然みんなわかってなかったんでしょうね。自分の所属している「村」が世界であり、村での人付き合いやいざこざへの対処は現実であり、生活だけど、村の外で起きていることは伝聞で形成されたつかみどころのないもので、ある種ファンタジーみたいに感じていた人も多かったのかもしれません。戦争もしかり。なんかわからないけど兵隊に取られて身内が死んでしまう、なんかわからないけど朝鮮人は野蛮だ、知らない社会システムを説明してくる人は怖いとか。

その謎のつかみどころのないものに侵食されそうな気がする、、、という恐怖に対抗するために、虚勢で強く見せようとしたり、社会が共有する正しさに合わせておけば絶対救われるんだ!という結論で生きていると、ハリボテが壊れたときに一番最悪な発露をしてしまうように思いました。とても幼稚なまま大人にならされている、とも取れる気がしてつらかった。「周りの人から見て」強く、正しく、みんなから尊敬される、みたいなことを目指すというのは、あまりにも個人の意志や思考をないがしろにしていると思います。みんなそれぞれに、いいところばかりではなく、弱さや恐怖心もある、ということを自覚して、個として立っている感覚を持っていれば、目の前に来た人の所属を理由に捕まえよう、殺してしまおう、などという気持ちが真っ先に出てくるひとは少なかったのだろうな。今落ち着いた世界から見るから見えてくるものであり、当時の切迫した状況では難しかったんだとしても、だからといって見て見ぬふりをしていたら、またいつか繰り返しちゃう気もしてわたしはそっちのほうが怖いです。

とりとめもないですが。幼稚なまま、見て見ぬふりの自分のままでいいのか?という問いは、ここ5〜6年で自分の中に湧き上がっている問いでもあり、少しずつ見えてくるものがある中でのこの映画。観ている最中とてもしんどいものがありましたが、必要な思考だったように感じています。ひとりひとりが「ひどい行いは、もう起こらない世界にしよう」と思って生きるだけでもなにかいい方向に向かうはずと信じて今後も行動していきたいものです。

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